生涯の師 遠藤欣一郎さんとの出会い(1970年昭和45年)からお別れ(1998年平成10年)まで・・・。
1998年12月8日86歳で天に召されました。
1998年(平成10年)6月27日、遠藤さんからいただいたハガキ。
嬉しくて紙製の額縁をつくりDeskに飾っていた。
この頃は介護施設に入居されていてた・・・。
仕事も順調に進み1998年(平成10年)6月7日に平河町の「北野アームス」に移転。
「北野アームス」は東京芸術大学吉村順三名誉教授の設計で1964年に建てられた戦後初の家具つき高級アパートメントホテル。
当時こうした欧米流アパートメントホテルは類がなく、サービスアパートメントの草分け存在だった。
自民党本部と道路一つ隔てる位置関係からかそうそうたる個人・団体・シンクタンク等がオフィスを構えていた。
玄関にはガードマンが終日立っていて、1階にレストランと受付、屋上にはプールと隣のビルへの連絡通路まであり、その他にも出口がいくつもある不思議なビルだった。
※2011年(H23年)3月12日の東日本大震災で大きな窓ガラスにヒビ(東京震度5強)。
1988年、遠藤さんの著書「玩具の系譜」の表紙デザインをさせていただいた。
1987年、創立10周年記念パーティを開催。
株式会社システムクリエイツも設立10年を経過し、一つの区切りをつける意味で記念パーティを開催。
遠藤さんも駆けつけてくださった。
記念品のライトも社員が電気器具の製造免許を取得し、全員が工場に入り製作。
招待状には手で温めると色が変わる液晶インクで「10th」を印刷した10cm定規のオマケをと、更に当日持参いただく様にお願いしたサインを書くシートを添付。
サインを書いたシートを当日持参いただき、このサインをプリントしたチョコレートを装ったメモ帳を製作し後日参加いただいたみなさまにプレゼント。
その方のサインをプリントした、チョコレートを装ったメモ帳を記念品として製作し、後日お送りしたら、みなさんビックリ。なかにはこんな素敵なメモ帳をつくってくれるのを知っていたら、もっと丁寧にサインを書いたのにとクレームを言われた方もいて・・・。
コンクリートの台座から社員が手づくりした記念品の照明器具を当日の記念品として持ち帰りいただいた。
そうこうするうちに「SYSTEM CREATES INC.」という社名までもつけて戴き、事務所もやはり遠藤さんの紹介で、神田三崎町の日大横の小さなビルにあった事務所に間借り。
1977年12月13日に念願の「株式会社システムクリエイツ」を設立・代表取締役就任。
ロゴは友人だったイラストレーターの與口隆夫さんに制作していただきました。
1976年(昭和51年7月19日)の夏、会社を辞めたがっていた僕に遠藤さんから突然“独立するにあたっての自己分析表”が送られて来ました。
「独立する可能性のための分析表「KOSUGI FORUM OF ANALYSIS」とタイトルまでつけられた、遠藤さんからのB4用紙5枚、20項目にわたる質問状でした。
11月に入ってまもなく、第二段階に進んだより具体的な質問状を戴きました。
今度はまるで遠藤さんが横にピッタリとくっつき、手取り足取りの如く実践的な内容でした。
超具体的な税務署対策から日常的な細かいお金の動きまでの指導でした。
もちろんこの背景には経営者としての姿勢を保てるかどうかの最大な教えがありました。
アポロ社「ドリフのモンタージュ」。
当時大人気だったドリフターズの似顔を、目・鼻・口・顔の輪郭などのパーツに分けて透明板に印刷、各パーツを重ね合せる事によりモンタージュ的な似顔ができる玩具。
1971年(昭和46年)にアポロ社遠藤社長に提案し採用された玩具。
アポロ社「ミラーマジック」。
ミラーに写り込むイラストがファンタジーな世界を演出する仕掛けの玩具。
提案の連絡をした際1970年(昭和45年)11月12日に遠藤さんから速達でいただいた手紙。
提案の連絡をした際1970年(昭和45年)11月12日に遠藤さんから速達でいただいた手紙。
1965年(昭和40年)日本大学芸術学部美術学科工業デザイン専攻卒業後、大日本文具株式会社(現ぺんてる)に入社したが、本来したい開発の仕事ができないと解りたった1年半で退社。
1970年(昭和45年)生涯の師 遠藤欣一郎さんと出会う。
昭和45年当時はデザインコンクールなどは滅多に無く、クリエイターが自己開発したモノを世に出す手段はほとんどなかった。
おもちゃを考案し、あちこちの企業に売込みをしたがなかなか実現しない中で、やっと話を聞いていただける企業があった。
それが株式会社アポロ社の遠藤欣一郎社長。
ここから遠藤欣一郎氏とのお付き合いが始まり「東京の親父」へと繋がった。