発想仕事人モノづくり研究所blog

60数年間、世に未だ無い素材の開発と用途開発・新発想生活グッズの開発とそのマーケット開拓に励んでいます。60年に亙って創り続けてきた生活用品の数々をご覧ください。発想仕事人モノづくり研究所代表 小杉博俊©

2023-08-01から1ヶ月間の記事一覧

1985年~、干支立体年賀状・全日本DM大賞銀賞受賞

1985年以来毎年進化させながら続けてきた干支年賀状。バブル崩壊後は、我が身を早く不況の波から脱したいとの強い思いもあり、よりお目出度い賀状にリ・デザイン。 このシリーズは1996年で終了したが、特に招福干支年賀状は皆様から歓迎され、1999年復活した…

1985年~、ぺんてる「レノマ・バーバリー手帳」シリーズ

現在ではブランド品の手帳を女性が持つのは当り前だが、’85年当時、一般の女性が手帳を持つことは皆無だった。 ぺんてるさんでレノマブランドの筆記具を発売するにあたり、「手帳類」も同時発売するコトとなり、この企画から生産までを担当。 「女性用手帳」…

1983年~、電子体温計「けんおんくん」のネーミング・パッケージ・ディスプレーから広告展開までトータルな企画を提案

ご縁があって立石電機株式会社(現オムロン株式会社)さんに伺った折り、開発部長さんから見せられた家庭向け第1号機電子体温計「MC-20」にビックリ。 それまでの水銀体温計がガラスの棒に目盛りを1度単位で刻んた線に墨入れしてあるもので、とても読み難か…

1981年、HawaiianHost chocolateサービス袋・ハンディーボックス・トレーの仕切りデザイン

”ハワイのお土産といえばマカデミアナッツチョコレート” といわれてから、半世紀以上が経った今も、創業当時と変わらない味をつくり続けているHawaiianHost社。 HawaiianHost社は世界で初めてマカデミアナッツチョコレートをつくった老舗メーカーで、日系三…

1981年、 自主開発;気分はとってもポップコーン「紙風船でポップコーン」

コーン粒を紙風船に詰めて電子レンジでチンしてつくる「気分はとってもポップコーン」を開発。紙風船が大量生産できず未だ商品化できていない・・・。 70年代の始めに電子レンジを購入。 電子レンジの機能に興味を持ち始めた頃、鍋でコーンを炒ってポップコ…

1977年~、ぺんてる筆記具類の「ディスプレーカートン」

筆記具類をディスプレーカートンにセットしたままで発送でき、開封すると簡単にカウンターに展示できる各種のディスプレーを開発・デザインし、製造までを受託。 設計だけではなく高品質な製品をアウトソーシングで生産していただき納品する苦労を体験するも…

1977年、「王子カミカ」を退職・「株式会社システムクリエイツ」設立 代表取締役就任

1976年の夏、会社を辞めたがっていた僕に遠藤さんから突然“独立するにあたっての自己分析表”が送られて来ました。 「独立する可能性のための分析表(KOSUGI FORUM OF ANALYSIS)」とタイトルまでつけられた、遠藤さんからのB4用紙5枚、20項目にわたる質問状で…

1970年、 レゴブロック的発想の「クッキー抜き型」

レゴブロックに様々な形状の刃型を差し込んで、いろいろな形状の「クッキー抜き型」ができます。

1977年、ぺんてる「ホワイトシリーズ」・超ロングセラー商品「ホワイトがくぶち」

ぺんてる「ほわいとシリーズ」 描画材メーカーのぺんてるに、幼児がのびのびとおおらかに描ける大型白無地の紙製教材「ホワイトシリーズ」を提案。 ダンボール製の新幹線やお神輿、画用紙製の大きな身長計など、描画を楽しんだ後も、幼児が楽しんで遊べる大…

1974年、「 非常口のドアハンドル」 第23回 毎日工業デザイン賞毎日ID賞牌受賞

コンクールの課題が非常口のドアハンドルデザインであったが、平常時における非常口の位置確認と周辺を物置がわりに使用しない習慣が大事と、与口さんに描いていただいた消防士の大きなイラストを壁面に表示するコトを提案。 受賞決定後、審査委員会から課題…

1973年、Brandy Old Kenigsberg ロシア産「コニャック/ブランデー・キャビヤ)」のパッケージ

ロシア産の素朴なデザインのキャビアの瓶詰やコニャック・ブランデーボトルのパッケージをデザイン。 中身の瓶詰やボトルのイメージに合わせて、シンプルなデザインながらも価値観を表現する素材を使用してデザイン。

1973年、王子合成紙「ユポ」

ユーモアあふれるキャラクターを描く与口隆夫さんと出会い、王子合成紙「ユポ」などを活用した様々な販促品や商品を開発・デザイン。 液晶温度計やファンシーな合成紙「ユポツイードテープ」など、 今発売したらヒット商品になると思われる程、早すぎた商品…

1972年~、再利用を意識した「大丸百貨店サービス袋」‘73 パッケージング展ショッピングバッグ部門賞受賞

当時、翌月の催事広告媒体となっていたショッピングバッグを、サービス精神の原点にもどった風呂敷の現代版と位置づけるコトを大丸百貨店に提案。 素材開発からデザインまでを担当し、和紙のあたたかさを持つ末晒クラフト紙を開発。 このショッピングバッグ…

1971年、第20回毎日工業デザイン賞特選二席工業技術院長賞受賞「ユニバーサルなマーキングペン」 

第20回毎日工業デザイン賞に応募。工業技術院長賞を受賞した。 30年前には「ユニバーサル」という概念はもちろんなかったが、量産されたペンをくるっと曲げて変形させることにより、肢体不自由者にも容易に使用できるペンを提案。 しかし、スポンサーだった…

1970年、株式会社王子カミカ(王子製紙と西武百貨店の合弁会社)設立に参加・「紙の傘ピロピロ」を発売。

王子製紙と西武百貨店の合弁会社「株式会社王子カミカ」設立に参加。 取締役商品開発部長に就任。右列真ん中の方が堤清二さん、左列真ん中の方が王子製紙田中文雄社長。正面左が王子カミカ社長の馬場康一さん。右が小杉博俊。 誕生したての王子カミカ(王子…

1970年、第一勧業銀行「宝くじ販促品」

宝くじは第一勧業銀行が発行・販売をしていた時代、販売額の1.4%を「社会貢献広報費」として使われていました。 この「社会貢献広報費」でこんなモノをつくっていました。 この頃はマッチで火をつけていました・・・。 宝くじを収う「宝箱」 ちなみに令和3年…

1970年、王子カミカ手漉きキット

はがきサイズの紙を、手漉きで創る事ができるキット。 和風なかぶせ蓋形式で、蓋にも部材が収納できる構造とした。

1969年、カミカ企画「8トラック カラオケテープパッケージ」

当時最新の音楽メディアであった8トラックテープを使った音によるドライブガイドのパッケージ。 表紙を開けると観光マップがパッと飛び出し、閉じるとマップが自動的に畳まれる構造(ミウラ折り)。 表紙の素材は、その頃開発されたばかりの合成皮革「テキソ…

1969・1970年、雪印「ヨグールX’masギフトパッケージ」

ワンタッチで組み立てができる雪印ヨグール6ヶ入X’masギフトパッケージ。 この頃、お父さんが会社帰りにX’masケーキを買って帰るのが流行していた。 X’masケーキの箱をマネて、吊るして運べる構造を開発。 職場で予約注文チラシを配布したら、注文が殺到した…

1970年、アポロ社「ドリフのモンタージュゲーム」。1971年、アポロ社「ミラーマジック」。

1971年(昭和46年)。 アポロ社「ミラーマジック」。 ミラーに写り込むイラストがファンタジーな世界を演出する仕掛けの玩具。 1970年(昭和45年)。 アポロ社「ドリフのモンタージュゲーム」。 当時大人気だったドリフターズの似顔を、目・鼻・口・顔の輪郭…

生涯の師 遠藤欣一郎さんとの出会い(1970年昭和45年)からお別れ(1998年平成10年)まで・・・。

1998年12月8日86歳で天に召されました。 1998年(平成10年)6月27日、遠藤さんからいただいたハガキ。 嬉しくて紙製の額縁をつくりDeskに飾っていた。 この頃は介護施設に入居されていてた・・・。 仕事も順調に進み1998年(平成10年)6月7日に平河町の「北野ア…

1967年、販促品「花の缶詰」

水でふくらませるだけのタネまき培養土「ジフイーセブン」を見つけて、直径がジュース缶より少し小さいコトに気づいた。 また「ジフイーセブン」に水を吸水させると縦に大きく膨らむので、缶の縦サイズをこれより少し高いサイズの缶をつくり、この缶に「ジフ…

1966年、学研「紙と新しい材料」著作

紙製工作を書かせていただきました。 「紙でつくる金魚のパッケージ」と「紙製のピクニックセット」。

1966年、第1回日本自転車デザインコンクール奨励賞受賞

相田竜男さんとの共作で、二人で何日間閉じ籠って設計したが、疲れて寝てしまい起きると図面が修正されていたので、彼が睡眠中にさっさと元のデザインに戻したら、また彼がそれを修正。 そんな繰り返しで共同で創る楽しさと妥協のポイントを探るすてきな体験…

1966年、JPDA展出品「水槽になる金魚のパッケージ」

日本の夏と言えば、夏祭り。縁日と言えば「金魚すくい」。 すくった金魚は小さくても“生きもの”。 だったらすくった金魚を責任もって飼育できる水槽付きパッケージと発想。 JPDA展に出品「水槽になる金魚のパッケージ」 ケーキのパッケージにちょっとした仕…

1965年、日本大学芸術学部美術学科工業デザイン科卒業・大日本文具株式会社(現ぺんてる)入社

この頃は雑貨メーカーで工業デザイナーを採用する企業などは無く、どうしようかなと考えていたら、当時アメリカのジョンソン大統領に書き味を評価され新聞や雑誌で大きく “大統領が愛用する不思議なペン”として取り上げられ、あっという間に「サインペン」人…

1961年、日芸2年生春の工業デザイン実習課題が「車のドアハンドル」。1965日芸卒業制作「マグネット式ブロック」

同級生全員がアメ車で流行になった流線形デザインを試みる中、一人だけ安全を追求し車体にハンドルを埋め込んだドアハンドルを発想。 ※この時代(1960年頃)の車には、日本はもちろん海外にも、車体にドアハンドルを埋め込んだタイプは皆無でした。 この発想…

1960年、日本大学芸術学部美術学科工業デザイン科入学

車で遊びまくっているうちに自分で車のデザインをしてみたく(1959年秋の東京モーターショーで三菱自動車が「三菱500」を発表。宣伝を兼ねて発売前にフロントグリルデザインの公募があり、絵が得意だった叔父西尾忠男と一緒に応募したコトがきっかけだった)…

1958年、普通車免許を16歳で取得「タテ目のセド」を乗り回ししていた。

住まいの隣が学習塾で、小学校の低学年だったと思うが、入塾して、小学校を卒業するまでに中学校の学習は全て学んでいた。が、中学時代はその塾も止め、なにも勉強せず卒業。 静岡県立磐田南高校と言う進学校に入学(13回生)した途端、周りのエリート達にド…

1945年、米爆撃機B29による無数の焼夷弾が浜松市街を焼き尽くした。

僕が3歳になったばかりの太平洋戦争末期の1945(昭和20)年6月18日未明、僕が住んでいた見附の街(天竜川の東側の小さな街)にも飛来したそうだが、目標は軍需工場があった浜松で、幸いにも焼夷弾は落とされなかった。 また海からは連合艦隊による艦砲射撃が…